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御神徳

 天照大御神は最高に尊い神で、その広大な御神威のもとに天地万物すべてのものが生を受け、恵み育てられております。
 豊受大神は、農業・商業・工業・水産業等衣食住の守護神として崇拝されております。
 人々がそれぞれの職業について安心して毎日を送れるのは、初めて日本の国を治められた神倭伊波禮彦命(初代の天皇の位につかれた神武天皇)の御神恩によるものであります。
 この御三神の御神徳の偉大さは誠に計り知れないものがあります。

御由緒

 御鎮座地開成山は、「水と緑のきらめく未来都市」として躍進する郡山市の中央に位置し、国道四十九号線を始め四通八達し、深い緑におおわれた神苑が広大な桜の名所開成山公園を前景とし、周囲には郡山市庁舎・総合体育館・郡山市総合教育支援センター・郡山女子大学・開成館・安積疏水土地改良区事務所と記念館がそれぞれ偉容を誇り、行政・文化・教育の中心として、 日に日に発展を続けております。
 しかし、江戸時代までは一里四方六百町歩(百八十万坪)の大槻原(後の桑野村)といわれた荒れ果てた広々とした原野で、明治五年六月に権令として赴任し、十月に県令(県知事)となった安場保和氏が、維新政府の基本方針である殖産興業(生産をふやし産業を盛んにすること)の一環としての、拓地植民(荒野を開墾して人々を移住させる)・士族授産(職を失った士族救済の政策)の計画をたて、中條政恒氏を典事に登用して開墾を担当させることにし、明治六年三月に県官の石井貞廉・加藤邦憲・安藤政輝の各氏と共に安積郡に派遣しました。
 中條氏は郡山村の商人で資産家である阿部茂兵衛氏に、この開墾が地域に利益をもたらす事業であることを説明して協力を求めました。阿部氏はこれを快諾し、二十四名の賛同者の出資による会社を設立し、「開成社」と名付けました。開成社は開物成務(人々の知識を開発し、事業を完成させること)の文字の意味からとったものです。
 このようにして明治六年四月に工事に着手いたしましたが、大槻原を中心とする安積郡は、江戸時代には二本松藩の所領で、郡山組・大槻組・片平組の三代官所を置いて統治しておりましたが、各組間を融和させることは極めて困難な状態でした。それに加えて、大槻原は郡山村・小原田村・大槻村・富田村に囲まれた入会地(原野を共同で利用し、家畜の飼料の草や燃料とする雑木を採集するところ)で、その取り合いのため常に紛争が絶えませんでした。更に、士族授産によって農民となった二本松藩の士族と、近村の農家の次男・三男等が入植しましたので、人心の融和統一こそがこの事業を成功させるための最善の方策と考え、中條氏は敬神愛国の道を説きました。たまたま明治六年は国民の祝祭日として「神武天皇祭」が四月三日、「天長節」(天皇誕生日を祝う日)が十一月三日に制定された年なので、「離れ森」といわれていた眺望絶佳の小高い丘を「開成山」と名付け、その山上にお祭り広場としての遥拝所を設け、それを中心に一大遊園地を造り新村の意気を発揚させる計画を進めました。十一月三日の最初の天長節、そして次の年の神武天皇祭と明治八年までの春秋二回の遥拝式は、安積郡内三十六ヵ村が参加して、三日間に亘り六万人の人出で賑わいその目的を達成したのであります。
 明治八年十月に本殿と拝殿が造営されますと、人々は御祭神について協議し、皇祖天照大御神の御神霊と養蚕業の守護神豊受大神と日本の国の基いを定められました神武天皇の御神霊を奉祀したいということになりました。阿部茂兵衛氏等は一同の熱意を容れ、県の指導を受けながら教部省(当時の神道、仏教に関する事務を取り扱った官庁)に請願を重ねました。
 神宮御分霊の奉祭は未だかつてその例が無いので、慎重に審議されましたが、神宮司庁の允可(ゆるし)を受け、明治天皇の御聖断を仰ぎ、太政大臣(現在の総理大臣)の決裁の下に、明治九年一月二十九日にこの請願が聞き届けられました。このことは、当時の東北は戊辰の役において 朝敵の汚名を受け民心動揺の状態にあったために、明治天皇はこの民情を深く御憂慮され、一視同仁(すべての人を平等に見て、一様に愛すること)の大御心から、皇室の御祖神をお祀りすることにより国家の思恵を受けさせようとの破格の御沙汰をお示しになったものと考えられます。
 明治九年六月に、神宮大宮司田中賴庸氏は神宮御分霊を捧持して伊勢より神宮司庁東京出張所に入り、同九月八日に、神宮禰宜芳村正秉氏他神官五名に楽師六名と舞女一名が、奉迎諸員と共に東京を出発し、九月十八日に奉遷の儀式が執り行われ、社号は「開成山大神宮」と敬唱することになりました。
 それ以来、当大神宮は公私の尊崇篤く、明治天皇は明治九年六月の奥羽御巡幸の際に御親拝になられました。また明治十一年に国営事業の「安積原野開墾」が着工され、明治十二年十月二十七日のこの事業の根幹となる猪苗代湖の疏水工事の起工式には、伊藤博文内務卿が斎主となり、松方正義大蔵大輔兼勧農局長を始め政府高官や県官、そして開成社社員が参列の下に「猪苗代湖疏鑿起業式臨時祭」を祈願いたしました。十五年十月一日の「猪苗代湖疏鑿竣功報告祭」と「通水式」には岩倉具視右大臣、松方正義大蔵卿、西郷従道農商務卿が参列し、十六年九月二十七日の「疏水成業報告祭」には、疏水工事執行の最高責任者として、伊藤博文参議、品川弥二郎農商務卿等が参列の上、祭典が斎行されたのであります。
 御奉遷百年の昭和五十年には、神宮より御用材の撤下を受けて本殿を、そして神楽殿、宝物殿、神札授与所を造営し、六十年の御奉遷百十年祭には祈祷者参集所を、また平成三年には御奉遷百十五年と皇紀(神武天皇が即位されてから)二千六百五十年と平成の御大典を奉祝し、青森檜葉で拝殿と神門を造営いたし、平成十七年の御奉遷百三十年の奉祝事業として、南北参道入口の大鳥居と、手水舎と参拝者休憩所を建設いたしました。
 緑の杜に映える荘厳な御社殿により、「東北のお伊勢さま」として人々からますますその御神徳を称えられております。

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